大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

最高裁判所第三小法廷 平成7年(あ)640号 決定

本籍

和歌山県田辺市元町一二三九番地

住所

同 田辺市元町一二三八番地の四

農業

坂本肇

昭和三年一月一日生

右の者に対する所得税法違反被告事件について、平成七年六月一五日大阪高等裁判所が言い渡した判決に対し、被告人から上告の申立てがあったところ、和歌山県田辺市長認証の戸籍謄本の記載によれば、被告人は平成九年一〇月一五日死亡したことが明らかであるから、刑訴法四一四条、四〇四条、三三九条一項四号により、裁判官全員一致の意見で、次のとおり決定する。

主文

本件公訴を棄却する。

(裁判長裁判官 尾崎行信 裁判官 園部逸夫 裁判官 千種秀夫 裁判官 元原利文)

平成七年(あ)第六四〇号

上告趣意書

被告人 坂本肇

右の者に対する所得税法違反被告事件について、さきに上告の申立をなしたが、その理由は左記のとおりである。

平成七年一〇月一二日

右弁護人 井戸田侃

最高裁判所 第三小法廷 御中

第一点 原判決は、判例に違反し、罪とならない行為に対して実刑を言渡した違法がある。

一 被告人の各行為は、客観的には違法な行為であることは間違いないが、被告人には違法性の意識がなく、そのことについてそれ相当の理由があったから、被告人に対して無罪の言渡しをなすべきである。のにかかわらず第一審判決は、「違法性の意識がなかったことを窺わせる証拠はない」として被告人に実刑を科した。これに対して、原審弁護人は、この第一審判決は、違法性の意識についての判例を誤解し、あるいは通達等の理解について建前のみしか理解せず、実際はどうであるかについては考えないものであって、同和問題について当局が特別な扱いをしているという事実を無視するものである。被告人はその得た利益を同和対策事業の推進、その他同和地域のために使用すれば、実際上は特別扱いをしてもらえるものと信じ、地元税務署、大阪国税局、国税庁などの指導をうけ、これにしたがい節税をしたつもりであって、本件のような行為は許されるものと信じてなしたものであると主張した。しかし原判決も、第一審判決同様、建前のみを考え、これを一蹴したのである。建前のみを云うだけでは、国民を納得させることはできない。実際上、どのようにこの問題が取扱われ、暗黙のうちに本件のような行為が実務上通用していたかどうか、たとえ通用していなくても、被告人がそのように信じたことがやむをえないかどうかが問われなくてはならない。同和団体に属する――教育をうけていない――被告人としては、これが許されると信じていたのである。原判決の判示を読むと、陪審裁判という要求が出る所以もよくわかるように思われる。

二 第一審判決、これに従う原判決の本質的な誤りは、わが国では、租税法律主義を採用しており、またすべての者は平等に取扱われることになっているという建前にもとづいて、本件判断をなしているということである。もちろん租税法律主義、法の下の平等ということは正しい。またそうでなければならないのは当然である。弁護人も、その二つの原則は、当然のことであると考えるし、またそれは何よりも尊重されねばならないと信じている。ところが現実には、それが守られていたのであろうか。被告人は、実際上は同和団体には特別な取扱がなされていると考えていたのではなかろうか。税務職員も法と異なる実際上の取扱を暗黙のうちに承認していることもあって、被告人など同和団体役員もそのように信じるのはやむをえないのではなかろうか。そこにこの事件の基本的な問題がある。その意味では、本件は、租税賦課の原則に関する重大な問題なのである。それについての最高裁判所の見識を問うケースであるといってよい。

ところが、第一審判決、さらにはこれを維持した原判決は、このような公式論によってのみ判断をなし、現実の租税賦課に関する実態を考えていないところに基本的な問題があるのである。被告人はその実態にもとづき、暗黙のうちに許されると信じたのである。原判決の判示では本件の問題点がわからないし、同和団体に属する一般国民の納得を得ることはできない。建前と現実との乖離こそが本件の問題なのである。

原判決が、「税法上同和地区に対して租税の負担を軽減し、あるいは不正な行為による租税のほ脱を容認するような規定はなく、国税庁長官といえども通達により税法の内容を改変することは不可能である……」と判示し、また「同和地区住民の納税申告手続について同和関係組織による総務課長への申告書提出という一括代行の便法を認めている点等を……あくまで申告手続面における負担を軽減するための実情に則した配慮であるにとどまり……」と理解し、また「田辺税務署長に対する右要望書」は、「経商連の会長名で申告書を提出するので、配慮を願いたい旨の要望書にすぎず」、また、大阪国税局長に対する右要望書についても、「申告書の内容を全面的に認めて事実上税額を軽減することまでをも求める内容を持つものとは認められない」し、また、いずれの提出時においても、外形上不正な方法で租税をほ脱する意図であることを口頭で明確に補足説明し」ていないという。また、平成元年一〇月二四日に東京の国税庁で参事官や参事官補と会って確認したとする点も、「不正な行為によるほ脱を容認することによって同和地区納税者の税負担を軽減する趣旨の確認がなされたものとは到底解されない」とし、さらには、「田辺税務署総務課長漁野明を訪れた際、土木請負契約に基づいて申告書を作成すれば追跡調査はしないと云われたので……」という点も、「総務課長がそのような発言をするものとは職責上容易に考え難い……」と判示する。

その他この種の判示があるけれども、このような判示は、いずれもすべて、法律が減免措置を定めていない以上、行政官庁が減免を行うことはない。すべての者に等しく税金を賦課、徴収すべきものである以上、同和団体であるからといって特定の者にのみ減免が認められることはありえない、という建前論のみに立脚する判断であるといわざるをえない。そのような建前は、弁護人もよくわかっている。またそれは正しい。しかし本件の問題は、現実においてこれが原則どおりに実施されていないのではないか。少なくとも、被告人ら教育をうけてこず、法律に無知な者にとっては、――被告人らのいままでやってきたことについて、署員から何らの異議が出ない以上――事実上、減免が認められていると考えるのは無理もないのではないかということである。ここに本件の基本的な問題がある。右判示の事実に則して云えば、何故、原則が右のようになっているのにかかわらず、昭和四五年二月一〇日付官総二-六国税庁長官通達を出したのか。原判決のいうようなことであれば、こんな通達を出す必要がない。「税務課長への申告書提出という一括代行の便法を認めている点」も、何故、こんな通常人と異なる提出方式をとるのか説明はない。国税庁、国税局に、何故、同和問題担当の特別な部局があるのか。いまなお国会の予算委員会などで国会議員から、同和団体についての納税の建前と実際の相違についての質問が出るのか(国会会議録を現在、調査中である。後日提出する)。これは現実には建前と実際とは異なるからではないか。

いずれにしても被告人が特別な取扱をうけることができると考えるのが、自然であるのではないか。また被告人が田辺税務署長や大阪国税局長、さらには東京の国税庁で参事官あてに要望書を出し、「経済基盤が脆弱なため、国税庁として同和地区税務者に対して格別の配慮をされるよう」、「近商連が指導し、近商連を窓口として提出される白・青色を問わず自主申告については、全面的にこれを認める。ただし内容調査の必要ある場合には、近商連を通じて、近商連と協力して調査にあたる」。旨の申込をことさらしたのは、何のためであるのか。通常の取扱を認めてほしいのであれば、こんな要望書を出す必要はない。税務署長ならば、こんな要望書を出すことになって、納税について特別の配慮、つまり実際上、減免を求めているということはよくわかるからである。いずれにしても、これを当該税務署長、大阪国税局長あてに出すということ自体、被告人は、特別な配慮を求めており、何ら拒否の意思表示を得ないからには、これは実務上暗黙のうちに認められたと考えるのも無理はないと思われるのである。田辺税務署総務課長漁野明氏の件についても、総務課長は公務員である以上、法律に反するようなことをいう筈はないという予断にもとづいて原判決はその評価をなしている。成程、表面上は正にそうであろう。しかし現実においては、総務課長は、特別に同和関係者の申告書受付者となり、特別に同和関係者の相談にのっていたことは事実である。

法律を適正に執行するためには、建前だけで考えていては、正しい判断はできない。法律は生きたものである以上、現実に根ざした判断が必要である。でないと正しい判断は不可能である。とりわけ本件の問題は、被告人がどう思っていたかということであるから、現実の取扱に根ざした判断が必要であると思われる。その意味で原判決の判断には、きわめて大きな疑問があるという他ない。

それでは、本件においては、どのような具体的な事実にもとづいて被告人が本件行為を許されるものと考えたのか、指摘しておきたい。

三1 第一審手続の冒頭から、一貫して被告人は、本件行為をなした事情について、つぎのように述べている。

「わたくしは、全日本同和会和歌山県連合会の会長、和歌山県経済商工連合会の会長として、これまで同和地域のために全力を挙げて努力してきました。同和対策事業の推進、その他同和地区のことに関し本当にいろいろなことをしてきました。経済的に貧困な同和地域の近代化のために努力することは、わたしの使命であると考えていたからであります。

その経済的基盤を支えるため、税法的に特別扱いをして頂けるものと信じ、地元税務署、国税局、国税庁などのご指導を受け、節税努力をしてきたものであります。

本件については、わたくしの無知もあり、多くの方々にご迷惑をおかけいたすことになりました。申し訳なく思っております。

しかしわたしは、これが認められていたと思っておりました。これによって得たお金は、私腹を肥やすために使ったものではありません。税務当局とご相談しながら、部落問題解決のためにやったものであります。」(第一審第一回公判期日における被告人の供述)。

そうして本件審理の終結にあたっても、「私は、これは許されていることだと思っていて、脱税ということは頭の中には全然ありませんでした。逮捕されたとき非常にショックでした。」「自分は脱税したとは考えていませんが、脱税したと云われても仕方がないとは思っています」(第一審第三九回公判)と述べていることも、これが違法ではなかったと被告人は信じていたことを示している。

被告人は、いま本件によって逮捕・勾留され、取調をうけ、裁判をうける身になって初めて、本件の行為が違法であったことを知ったことを示している。このことは、被告人は冒頭から終結に至るまで一貫して述べているところであって、これが本件行為をなすにあたっての被告人の真情であると思われる。

もともと被告人は、同和地区に生れ、そこで育った教育もない、ただ同和問題解決一筋に生きてきた老人である。同和地区には、税務問題については、他の地区と異って、特別ないろいろの配慮がなされていることは疑いのない真実であって、被告人が税金の申告にあたって特別の配慮があるものと信ずるのも無理はない。管轄税務署である田辺税務署の係官も、大阪国税局も、国税庁も事実上は暗黙のうえで、申告どおりで認めており、またこれらの係官は被告人がたびたび相談にいっても、一度たりとも被告人たちのやり方に異議をとなえたりしたことはない。被告人が同和団体の印のもとで、本件のような方法で、申告しても許されると思っても無理からぬところであろうと思われる。

2 事実、同和地区関係者に対して税法上の特別な取扱法規がいろいろあった。

このような税金の取扱について同和地区のみ特別扱いを現にしている例は、単に実務上の取扱だけではなく、法令にもたくさんある。たとえば「同和地区における不動産取得税の特別措置要領」(第一審弁第一〇〇号証)、「同和対策事業に係る不動産取得税の減免要領」(第一審弁第一〇一号証)、「固定資産税及び都市計画税に係る同和対策特別措置要綱」(第一審弁第一〇二、一〇三号証)、「国民健康保険料にかかる同和対策の特別措置軽減要綱」(第一審弁第一〇四号証)などがこれである。その他、「固定資産税、自動車取得税、事業税等について減免を行っている」(同和問題解決への展望一六二頁)といわれ、固定資産税の減免は、関係市町村一一二一市町村のうち、五〇七市町村で実施されていることが報告されている(その証拠は、整理のうえ、当審で提出したい)。その軽減率も五〇%というように非常に大きい。また総額三〇〇〇万円までの所得については、同和地区関係者については、免税措置を講じる申合せがあると被告人はきいていたのである。

これらの事実は、被告人のような教育のない、同和問題に積極的に取り組んでいる者にとっては、同和組織で申告すれば、大はばに税金が減免されるであろうとことを信じさせる。

3 同和団体、ないしは同和地区納税者に対しては、租税の具体的な適用にさいしては、関係機関により、実際上、特別な取扱が承認されていた。そうして被告人は、本件行為をなすにあたっては、つねに国税庁、国税局、税務署の当該係官と密接な連絡をとり、相談しながら本件の行為をなしていたのである。ひそかに、被告人の一存により、違法な申告書を提出したのではない。

a 昭和四五年二月一〇日付国税庁長官通達(第一審弁第四九号証)によれば、その2において「同和地区納税者に対して、今後とも実情に則して課税を行なうよう配慮すること」という項目がある。実情に則した課税をすべきことは当然であるから、何故、同和地区納税者のみこのような特別な通達がなされたのか。これは同和地区納税者に対しては、一般の納税者とは区別して取扱うことをあきらかにしたものという他ない。少なくともそう信じさせる。そうして国税庁においても、一般納税者とは異なった同和専従の参事官を配置してとくに特別の窓口を設け、また大阪国税局においても同和対策室というような特別な窓口を設け、さらに各税務署においては、同和対策の窓口として、直接、総務課長に申告書を提出するなど特別に定めていることは、同和地区に対して、国税庁のあらゆる組織が特別な扱いをすることを認めているのである。このことは、同和団体、ないしは同和地区納税者には、一般人とは異なった特別な扱いが認められていることを思わせる。少なくともこの問題にくわしくない者には、そのように信じさせる。かくして

b 被告人が、要望書(第一審弁第五〇号証)を作成して、これまで申告は、全国自由同和会和歌山連合会でしていたが、経済商工連合会を結成したので、申告書には、「全国自由同和会和歌山県経済商工連合会」の印で提出する旨を申入れることになった。さらには、平成元年一二月一二日付要望書(第一審弁第五一号証)には、「国税局として同和地区納税者に対して特別の配慮をされるよう」申入れ、とりわけ「3、近商連が指導し、近商連を窓口として提出される白・青色を問わず自主申告については全面的にこれを認める。ただし内容調査の必要ある場合には近商連を通じて近商連と協力して調査にあたる。」などのように、あきらかに特別な取扱いをすることを申入れているのである。

同和団体が窓口になって提出した申告書については、特別扱いすること自体、その内容について格段の配慮をしてもらえると思わせるのである。しかも「近商連が指導し、近商連を窓口として提出される白・青色を問わず自主申告については全面的にこれを認める。」というのである。しかも調査の必要ある場合でも、税務署は、近商連と協力して調査にあたるというのである。これらは事実上、近商連の考え方がうけ入れられていると考えるのがわれわれの常識である。しかも現に、これまで「内容調査の必要ある場合」は一度もなかったというのであるからなおさらそうである。中央の国税庁に対しても、担当の参事官に対しても同様の申入をなしている。つまり被告人は、本件のような方法による申告のやり方を許されると信じていたのである。

税金についてプロである国税庁、国税局、税務署は、これが何を目的としているかがわからない筈はない。しかし、それに対して国税庁も国税局も、税務署もこれまでのやり方、さらにはその申出に対して、異議をとなえたり、否定したりした係官は誰一人いない、そういうこともあって、この申入れに対して別段の意思が税務当局から示されていないから、被告人はこれが暗黙のうちに承認されたものとして考えたのであることを示している。むしろ田辺税務署の窓口である総務課長などは、これまでの方法でやってよい、ダミー会社を使ってはいけない、三〇〇〇万円控除の方法を使うのではなく、領収証をつけて提出せよ、「減額方法」は、工事請負契約書がよい、などのアドバイスをしているのである。被告人としては、これまでどおりの本件のようなやり方で申告してよいと信じるのは当然のことのように思われる。もっとも原審において漁野課長はこれを明白には認めなかったけれど、もともと税務署員が明らかに法に反するような脱税をしてよいという筈はない。しかし形式上、手続的にきちんとしてあれば、実際上、追跡調査はしないというような特別な取扱を同和団体については認めてもらえるものと考え、つねに所轄税務署、大阪国税局、国税庁の係官を訪れ、その指導をうけていた。そうしてそのアドバイスのもとに許されるものと思って本件行為をなしたのである。正当な同和問題のために使う費用を捻出するためには、正当な同和組織がなせば、税金については暗黙のうちに、特別な取扱が認められると信じたのである。もしこれが違法であるならば、――つねにそのアドバイスを被告人はうけていたので――何故、税務署員が注意してくれなかったのか。注意されればすぐやめたのに……。というのが被告人の偽らざる思いである。これまでつねに税務署員に相談し、税務署に出入していた被告人に対して、被告人が逮捕されるまでに誰一人として、そのような申告は違法であると注意した者はなく、むしろ被告人が「これまでの方法でやってよいのか」と相談したところ、税務署員は、「それでよい」とさえ云っていたのである。

c さらに重要な事実がある。右のようなことは、被告人の組織だけではない。他の組織、たとえば部落解放同盟も同じような方法で申告をしていることから、被告人は、この方法でやってもなんら差支えないと思っていたことを裏付ける。

「解放同盟の税務申告の現状」(この書面については、検察官の同意をえられなかったが、これが被告人の供述の内容となっており、この書面は第一審第二〇回公判調書の供述に添付されている)は、他組織である解放同盟の申告の現状を報告したものである。これによっても、申告窓口は一本化されており、直接、大阪国税局で受付け、税務署へはコピーが送られるが、この内容は課長以下はみられないという。そうしてこの申告書には、「部落解放同盟和歌山県企業連合会」の印を押して区別するという。被告人は、この内容を真似て、右のように「全国自由同和会和歌山県経済商工連合会」の印を押して提出するように申入れたものといわざるをえない。「昭和四十三年一月三十日以降大阪国税局長と解同中央本部及び大企連との確認事項」(この文書も検察官の同意をえられなかったが、これが被告人の供述の内容となり、第一審第二〇回公判調書の供述に添付されている)も、これをモデルにして平成元年一二月一二日付の要望書(第一審弁第五一号証)を作成したのである。この内容は殆んど同じである。これを要するに、解放同盟も同じ方法で申告しており、これに対して税務当局から異論があったとは聞いていないから、そのようなやり方でやれば、すべて許されると被告人が信じたのは当然である。

d 弁護人は、このような現実は決して正しいやり方であるとは思わない。しかし現に国税当局がそのように同和地区のみ、税金の取扱について特別扱いをし、少なくとも被告人らに対して特別扱いが認められるように信じさせたことは、被告人の刑事責任を問ううえにおいて、充分に考慮されねばならない。建前のうえでは、すべての者は法の下の平等であって、差別されるべきではない。しかしここでの問題は、にもかかわらず現実には、教育をうけていない被告人などに対して、同和地区の者のみ、税務上、特別扱いをするように信じさせているところにあるのである。

4 被告人が本件行為をなした動機・目的についても、やましいものではない。右の趣旨に添うものである。

同和地区は、歴史的にも一般地区と区別され、経済、教育、住宅等々あらゆる点できわめて劣悪な環境のもとにおかれてきたことはいまさら説明する必要はない。被告人は、同和地区の出身者として幼少のころから筆舌につくし難い辛酸をなめてきた。同和地区出身者であるが故に、結婚に破れたこともある。正義感の強い被告人は、部落解放のために一身を捧げ、自腹を切ってその経済的負担にも耐えてきた。このことは、第一審並びに原審における被告人の供述のとおりである。

国も同和問題を重要施策の一つとして位置づけ、「同和対策審議会」を設立したり、「地域改善特別措置法」を制定したりとて、同和地区の住環境の整備・経済的向上・生活の安定のために力を入れてきた。その一環として、同和地区あるいは同和関係者に対して、税務上特別扱いをしていたことは、右に述べたとおりである。国の政策としても経済的基盤の弱い同和地区の住民らを保護する施策がとられてきたのであった。被告人が許されると考えた一つの理由はそこにあった。被告人の活動は、国の政策に寄与することになるからである。

地区住民も、それに応じて同和のための団体を結成した。国・地方公共団体の施策に応ずるように、自主的に、同和地区の問題を解消し、住民の地位の向上を図るための活動団体として作った「全国自由同和会」「解放同盟」「解放連盟」がそれである。その意味でこれらの団体の活動は、国・地方公共団体からみてもきわめて好ましいといえる。

しかしながら、これらの団体の活動に対する補助は、――少なくとも和歌山県にあっては――何もない。被告人らは、すでに同和問題のために、個人的に相当の出費を重ねてきた。しかし団体役員の個人的出資による活動にも限界がある。同和地区に対する特別措置も近く廃止されるかも知れない。国税庁、国税局、税務署はいまのところ、これらの団体による窓口一本化を認めているし、他の団体と同じように、被告人の属する「全国自由同和会和歌山県経済商工連合会」印による申告を認めている。これまでの要望、申出、申告について、一度も税務当局から注意されたり、拒否されたこともない。

かくして被告人は、国が援助に力を入れ、かつみづからも不当な差別に苦しんだ同和問題を解決するために、これまでのやり方による節税をつづけることは認められていると信じたのである。

四 いくつかの情況事実がある。

被告人が、本件のような行為は許されると考えていたことは、以上のような点からみて無理はないと思われるが、さらにまたつぎのようないくつかの情況事実からみても、このことは認めることができよう。つぎのような諸事実は、被告人が真実、許されていると信じていなければ、その行為をしたことについて理解することが困難である。

1 何よりも重要なことは、平成二年、被告人が新和歌浦で開かれた経商連の幹部会において、沢山の人々の前で、堂々と、国税庁、大阪国税局、税務署と話し合いをした結果、本件行為のように申告すればよいことになったと述べている事である。この会合は、原判決の認定するような「内輪の会合」ではない。しかもこういうことを被告人は、しばしば云っていたという(第一審証人原延治の証言、第九回公判)。そうしてこの責任は、自分がとると胸を叩いて断言している。もし本件行為がやましいものであると被告人が少しでも思っていれば、沢山の人の前でそのようなことを公言する筈はないし、ましてや刑務所に行くことを覚悟しない以上、その責任を自分がとるというようなことを云うことはありえない。この発言が広く知られてもよいと思っていたからである。これが許されていると被告人は信じていた証拠である。

2 本件逮捕に至るまで、本件行為前はもちろんのこと、本件申告の後においても、国税庁、国税局、税務署にしばしば被告人は赴き、係官と話をし、申告について要望している。もし被告人が違法な行為をしていると思っていれば、これら係官と会うことを避けるのが通常であるし、係官からもこれらについて被告人らを叱責するなり何らかの反応があるのが自然であると思われる。このことは、本件申告が署員のアドバイスにもとづいたものであることを窺わせるし、また被告人はこの申告が違法であるとは思っていなかったことを示すのである。

被告人は、本件行為が違法であるとは思っていなかった。それ故に本件行為によって逮捕されてびっくりしたのである。

五 もっとも本件において免れた金額は大きい。しかしこの点についても被告人は申しているように、かつて被告人は一割以下の申告ですましたことがあり、にもかかわらず署員からこれまでのとおりでよいといわれていたので、その数字にもとづいてその割合(一〇%)で申告したため、そのような金額になったのである。もしこれが不当であるならば、署員はこの点について注意を与えるべきであったのである。これまでのとおりでよいといってはいけなかったのである。被告人はこれが正しいと信ずるが故に、さきにふれたように堂々と和歌浦の幹部会でその一〇%という数字を公衆の前で述べたのである。金額が大きいからといって、被告人に違法の認識があったということにはならない。

また原判決は、「木下晟を除き、その他の納税義務者は同和地区とは無関係の者である」ことを指摘するけれども、被告人は、本件納税者たちについては面識がない。それですべて窓口になった者に委してあったので、被告人は確認できる立場になかったのである。そういうこともあり、被告人の主たる関心事は、そのようにしてえたカンパ金を真に同和問題解決のために使用することにあると考えていた。事実、被告人はカンパ金をもって私腹を肥やしていない。

またいわゆる「えせ同和」ということばがある。これは「被差別部落に対する差別の解消を目指している運動団体を装うがごとくして、差別を口実にモノ、カネを不当不正に得ようとする利権、暴力団体、個人をいう」ものといわれている。しかし本件被告人は、部落開放を目的とする自民党系のれっきとした団体に属しており、これまで解放のための多くの実績をあげている。本件によってえたカンパ金をもって一銭も私用に使っていない。本件行為も関係官庁の指導をうけながら、なした行為であることは、すでに指摘したとおりである。被告人の方から強引な無理をいったことは一度もない。本件は「えせ同和」行為ではない。

六 ところで違法性の認識については判例は、どのように考えてきているのであろうか。周知のように違法性の錯誤は故意犯の成立を妨げないとするのが、大審院のとるところであり、最高裁もそれをそのまま引き継いでいるといわれている。しかし最高裁も、たとえば昭和二四年四月九日判、刑集三巻四号五〇一頁は、違法性の意識必要説を説いているのではないかと学説上、云われている。最近でも、昭和五三年六月二九日判、刑集三二巻四号九六七頁は、少なくともその説示において、これまでの判例に対する消極的姿勢がみられる。昭和五九年二月二四日判、刑集三八巻四号一二八七頁、昭和六二年七月一六日判、刑集四一巻五号二三七頁も、違法性の意識を欠いたことについて、相当の理由がある場合には犯罪は成立しないという立場をとっているかのような判旨がみられる。いわばこれまでの最高裁判所判例の見解も、ゆれ動いているといえよう。

改正刑法草案第二一条第二項がこれを明文をもって認めようとしているのは、これまでの最高裁判例を錯誤を認める方向へと明確化し、違法性の錯誤について犯罪の成立を否定しようとしたに他ならない。

ところが高裁判例になると、違法性の錯誤があり、これが相当の理由あるときには、犯罪は成立しないという見解が一般になりつつある。東京高裁昭和二七年一二月二六日判、刑集五巻一三号二六四五頁、名古屋高裁昭和二九年七月二九日判、裁判特報一巻二号九三頁、高松高裁昭和二九年八月三一日判、裁判特報一巻五号一八二頁、広島高裁昭和四四年五月九日判、判例時報五八二号一〇四頁、東京高裁昭和四四年九月一七日判、刑集二二巻四号五九五頁、東京高裁昭和五五年九月二六日判、刑集三三巻五号三五九頁など多くの高裁判例がそれである。

これらの判例は、たとえ客観的には違法行為であることが明確であっても、当該官庁の係官が黙認していたり、同様な行為が法令によって認められていたことや取締るべき立場にある官庁が実際上それが許されているように扱っていること等々によって、行為者本人が法律上許されないとは考えなかったことに相当の理由があるときには、犯罪の成立を阻却することを示していたのである。

そこで被告人が本件行為をなすに至った経緯をみてくると、被告人は本件行為を許されるものと信じていた。しかもそれは被告人は個人的な利益を図るためにやったものではなく、また本件行為をなすについては、関係官庁の意見をききながら、そのアドバイスにもとづいてなしていることはあきらかである。そうして現に、同和問題の解決は、国の重要な施策の一つであり、そのため同和地区関係者には税法上も数々の特例があることも、証拠上、明白である。同和地区の住民、団体に対して税法上、あるいはその実務上の取扱いにおいて多くの特例が認められ、また団体からも多くの要望が出されているのに、これに対して当局も拒否という姿勢をとったことはない。また被告人に対してこれまで国税庁、国税局、税務署から注意されたこともない。これらの諸事実については、すでにさきに指摘したところである。被告人は、このような諸事情にもとづいて、本件行為が法律上許されないとは考えなかったために、みんなの前でこれを説明し、堂々と本件行為をなしていたのである。これが本件事件の特徴である。

七 このように検討してみると、右にあげた判例の趣旨からみても、本件の場合には被告人には錯誤により違法性の認識を欠くものというべきであって、それについて相当な理由があるというべきである。にもかかわらず、それを慢然と「違法性の意識がなかったとは云えない」とした原判決は、右の一連の判例に違反し、錯誤により違法性の認識がなかった被告人の行為に対して実刑を言渡した違法があるというべきであって、原判決は破棄を免れない。

第二点 原判決の刑の量定が甚だしく不当であって、これを破棄しなければ著しく正義に反する。

原判決の維持する第一審判決は、被告人に対して懲役二年及び罰金二千万円の各実刑を言渡したことはあきらかである。しかし本件における特別な事情を考慮すれば、これは著しく不当であると思われる。

一 本件における特別な事情とは、被告人は本件行為が許容されるものと思ってなしたということである。かりに右第一点掲記の主張の理由がないとしても、このような諸事実は、刑の量刑にあたっては、充分に考慮されるべききわめて重要な事実である。

刑法第三八条三項但書において、法律はことさら法律の錯誤の場合には、とくに「刑ヲ減軽スルコトヲ得」と規定している。このことは、かりにこれが犯罪として成立するとしても、刑を量定するにさいしては法定減軽事由になることを示している。それは、きわめて重要な量刑要素である。それは、行為をなすについての反対動機を減弱させるからである。無罪となるに至らない法律の認識がない場合でもそうであるならば、違法性の錯誤の場合には、より一層強い理由をもってこれが考えられねばならない。したがって、かりにこれが犯罪を阻却するに至らないとしても、この条文の趣旨から云って刑の量刑にあたり、この事実は充分に考慮されるべきである。

二 本件の特色として何よりも重要なことは、本件においては、納税実務において、同和関係者の特別扱いを黙認し、これに対して特別な指導もせず、むしろ積極的に特別扱いを推進するが如き国税当局の取扱が、本件行為を生んだと云える。いわば被告人は許された行為であると思ってやったところ、検察当局によって問題にされ、生まれてはじめて逮捕・勾留されたうえ本件起訴に至ったのである。もしそれが実刑ということになれば、被告人は、国税当局と相談し、これを黙認されているからこそ許されると思ってやったところ、刑務所に入ることを司法官庁より要求されたというべきであって、法に暗い被告人に対しては、国家機関よりひっかけられたという印象を拭い去ることはできないであろう。

この点、通常の税法違反と本件とは基本的に異なるのである。通常の税法違反であれば実刑であっても、本件のような事情のもとでは、有罪となっても執行猶予ということが充分考えられてよい。実刑と執行猶予とは、刑をうける者にとっては基本的に異なる。

三 これまでは税法違反といえば、懲役刑の言渡しがあっても、これについては執行猶予が附されるものと考えられていた。しかし昭和五五年三月一〇日、東京地裁で、法人税法違反について初めて実刑判決が言い渡されたのをはじめとして、ようやく実刑判決が言渡されるようになった。しかし実刑判決は、いまだ多いとはいえない。本件は、右のように違法性の認識について独特の問題を含んでおり、またその動機において私的な利益を追及するものではなく、利益の使途も同和問題解決のために用いられている。その犯行の手段においても、証拠隠滅など悪質な方法を用いていない。また被告人は初めて逮捕・勾留をうけた者で、同種前科はもちろんない。

被告人は、自らも同和地区出身者として筆舌につくし難い辛酸をなめ続けてこれまできた。その苦悩の中で同和地区解放と弱い者を救う必要性を痛感して、一身を賭してこの半生を捧げてきた。あとから来る者に自ら経験した悲しい思いをさせたくないと考え、寝食を忘れて働きつづけた。そうして自ら得た資金を、地域の弱者の経済的・教育的向上につぎ込み、同和運動に参加して地域の窮状を訴え、改善のための推進役をつとめてきた。被告人がいなければ、田辺市の同和地区(天神、末広、崖)は、今日程の成果をあげることができなかったであろう。被告人がこれまで完成させた同和関係の事業はきわめて多い(この具体的な内容については、現在、整理中である)。地域住民も関係公務員らも被告人の功績を高く評価していることは、陳述書(第一審弁第七一号証)、黒田証人、岡村証人等の証言するとおりである。被告人に対して多くの人から嘆願書が出ているが、それはこのことを示している。同和解放運動は、今も多くの難問をかかえている。もし被告人に実刑判決が確定する様なことになれば、和歌山における地域同和運動は停滞し、それは運動にとっても大きな損失であろう。

四 被告人が本件で受けたカンパ金は、平成五年七月二三日付上申書に記載したとおり一億円弱である。しかし、被告人は、この分配金を一銭たりとも自己費消していない。すべて同和運動費及び同和関連企業の更生資金として使用したのである。

その後、納税者から修正申告のため返金を求められ、被告人は自己が受け取った一億円弱は全額返済している。しかし、同和関係企業の中には回収困難なところもあり、また経費として費消したものは返金を受けられなかった。被告人は、やむを得ず手元金(第一審弁第一〇五号証による売買代金)や借入金をして返済資金を用立てたため、多額の負債を抱えることになり、今後、長年月をかけて弁済しなければならない状態に追い込まれている。

もっとも被告人の供述調書には、これと異なる供述が二、三ある。これは、被告人が第一審法廷で述べるように、全国自由同和会和歌山県連合会長樫木寛邦をかばってしたものである。樫木を逮捕させるということは、組織をつぶし、せっかく成果をあげはじめた和歌山における同和運動をつぶすと考えたからである。しかし、公判に至ってやはり真実を吐露するべきであると感じ、第一審ならびに原審法廷では真実を供述したのである。しかも捜査段階においては、検察官の誘導と甘言があったことも、被告人が第一審ならびに原審法廷において述べていたとおりである。

五 被告人は、勤勉、実直に六〇余年間のこれまでを送ってきた。この間、田辺市会議員、その他の公職を多数勤め、社会人として高い評価を受けてきた。もっとも若いころに罰金刑をうけたことが何回かあるけれども、逮捕、勾留は初めての経験である。二ケ月近くに亘る身体拘束及び取調べは、大変な屈辱であり、苦悩であった。被告人は、この期間中の心労により保釈後直ちに入院を余儀なくされ、後遺症(肝炎)のため今も通院生活をしている。また、本件は新聞紙上に大々的に報じられ、社会的信用も低下した。被告人は、その後公職の大半を辞して、今は農園で自然を相手に淡々とした生活を送っている。このように被告人に対する社会的制裁は、すでに充分つくされたと言って過言ではない。

六 被告人は、本件行為は違法ではないと思って実行したことは、第一点においてのべたところであるが、しかし自らの法的無知のため、多くの人々に迷惑をかけることになったのは事実である。この現実を直視し、今は反省の気持ちと呵責の念で隠遁の日々を送っている。今も同和解放には深い関心を持つ被告人ではあるが、今後第一線を退き後継者らの相談相手となって同和問題解決のため努力する覚悟である。被告人は、改悛の情顕著であり、再犯の恐れはない。この様な者に対して、実刑判決は無用であり有害であると思われる。

被告人は六七才を越え、老境に入りつつある。このような被告人に対して懲役二年、及び罰金二千万円の実刑を科した原告判決はあまりにも重すぎるというべきである。刑の量刑が不当であって、著しく正義に反する。原判決は破棄を免れない。

以上

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例